日本で過去最多となった未成年の自殺

理想的な教室の風景
理想的な教室の風景

日本における未成年の自殺者数が、過去最多となった。
警察庁の暫定統計によれば、2025年に自殺した小中高生は532人にのぼり、統計が残る1980年以降で最も多い数値となった。
これは1日あたり1人以上の子どもが命を失っている計算になる。

全世代の自殺者数が減少傾向にある中で、未成年だけが高止まりし、なお増加しているという事実は、極めて重い意味を持つ。
この数字は、偶然の連続や一時的な社会不安では説明できない。
むしろ、日本の教育制度、とりわけ中学・高校という環境が抱える構造的な問題が、長年にわたって蓄積した結果として現れていると見るべきだろう。

この現実を前にして、私たちは「個々の家庭の問題」「本人の心の弱さ」といった言葉で済ませてよいのだろうか。
そうした説明は、問題の核心を意図的にぼかし、責任の所在を曖昧にしてきた。

中学・高校で急激に増大するストレス構造

多くの人の経験が示すように、小学校と中学・高校の間には、明確な断絶がある。

小学校では、生活指導や道徳教育が重視され、教師は学習面だけでなく情緒面にも深く関与する。
一方で中学に進学した途端、状況は一変する。

学習内容は急激に難化し、評価は相対化され、競争が前提となる。
校則は厳格化され、部活動では強い上下関係が「社会性の訓練」として正当化される。
しかし、同時に生徒の心のケアは「自己責任」へと急激に移行する。

道徳教育は影を潜め、人間関係の摩擦や心の痛みを扱う機会は激減する。
結果として、勝者は称賛され、敗者は「努力不足」「適応できない存在」として放置されやすくなる。

ここで生まれる「落ちこぼれ」という概念は、単なる学力差ではない。
それは、自己価値の否定へと直結するラベルである。

いじめと孤立が構造的に生まれる理由

この環境下では、いじめが発生しやすい条件がそろっている。

過剰な競争、序列意識、同調圧力、逃げ場のない人間関係。
ストレスのはけ口を持たない生徒の一部は、より弱い立場の生徒を攻撃することで、一時的な優位や安心を得ようとする。

教師たちは決して無関心ではない。
しかし現実には、異常な業務量により、予防的な関わりや日常的な観察が困難になっている。
問題は「起きてから」しか認識されず、しかもSNSの普及によって、被害は学校外にまで持続・拡散する。

この段階で孤立した生徒が、誰にも気づかれずに追い詰められていくことは、決して例外的な出来事ではない。

教師ではなく「仕組み」が生徒を追い詰めている

重要なのは、この状況を個々の教師の資質や努力の問題に矮小化しないことである。

現場の教師たちは、すでに限界を超えている。
本来、最も時間を割くべきは、生徒一人ひとりの状態を把握し、関係性の歪みを早期に修復することのはずだ。
しかし制度は、教師からその時間と余力を奪い続けている。

つまり、生徒を追い詰めているのは「人」ではなく、人が動けないように設計された教育システムそのものである。

変えられないのではなく、変えようとしない権力

では、この構造を誰が維持しているのか。

統計も、現場の声も、悲劇的な事例も、すでに十分に存在している。
問題は「知らなかった」のではない。
知っていながら、優先順位を下げ、抜本的な改革を先送りしてきた点にある。

制度設計、予算配分、人員配置、評価基準。
それらを決定する立場にある権力者たちは、現場の疲弊と子どもたちの犠牲を、長年“仕方のない副作用”として扱ってきた。

教師に責任を押し付け、家庭に自己責任を求め、社会は深刻な問いから目をそらしてきた。
その結果が、過去最多という数字として突きつけられている。

問われているのは「血の責任」である

子どもが死に至るまで、問題として本格的に扱われない仕組み。
それを知り、変える権限を持ちながら放置した者たちは、単なる傍観者ではない。

それは法的責任とは別の、倫理的な責任――血の責任である。

この国の教育は、誰のために存在しているのか。
競争に適応できた一部の成功者のためか。
それとも、すべての子どもが生き延びるための場なのか。

過去最多という数字は、制度が発している明確な警告である。
これを再び「個別の悲劇」として消費するなら、同じ問いは、より重い形で繰り返されるだろう。