多くの人は、次のような流れで信仰を持ちます。
- 生まれた家に宗教がある
- 親や親戚が当たり前のようにその宗教を実践している
- 自分も「それが普通」だと思って何となく続ける
ここでは、次のような感覚が働きます。
- 「みんなやっている」=「正しい」
- 「親がやっている」=「安全」
でも、聖書の記事はこういう「思考停止の安心感」をかなり警戒しています。
「聞いた言葉すべてを信じる人は経験のない者、愚か者」
―― 箴言 14:15 の趣旨つまり、「多数派だから」「伝統だから」という理由だけで受け入れるのは、 激しい交通量のある道路を目隠しで渡るようなものだ、というわけですね。
この記事の外側の話も含めて考えると、こういう心理が働いていそうです。
所属欲求
「家族の輪から外れたくない」「親を悲しませたくない」という気持ち。
思考のコスト回避
一から調べるのは面倒くさいので、「親が信じてるんだから、まあ大丈夫だろう」で済ませる。
権威への依存
「長くやってる年長者のほうが分かっているはず」と考え、自分で確かめる前に結論を預けてしまう。
こうして、
- 「自分で考え、確かめて、納得して信じる」
- ではなく「周りに合わせて、とりあえず信じていることにしておく」
という状態になります。
これは、信仰というより“宗教的な習慣”に近いものです。