お世辞とへつらい / 聖書の視点

お世辞を言う人は邪悪な人かもしれない

丁寧な言葉に見えても、内側に不誠実や操作の意図が潜むことがあります。聖書はそれをどのように見ているのでしょうか。

ゴマすりしながらライオンににやけた顔でお世辞を言うタヌキ(法廷の場面)
挿絵:お世辞が「罠」になり得ることを寓意的に描写

聖書に見る「へつらい」の定義

「聖書に対する洞察」に基づく整理

  • 巧みな称賛の言葉で人に取り入ること
  • 偽りや度を超えたほめそやし
  • 相手の自己愛や虚栄心を満足させるための言動
動機は多くの場合、物質的な利益や立場上の有利を得るため、または相手に負い目を負わせ支配するため。
つまり、へつらいは本質的に不誠実であり、利己的な行為。
ヤコブ 3:17
「天からの知恵は清く、平和を求め、偽善的ではない」――へつらいはその逆で、不誠実さ偽善の証拠。
(関連:コリント第二 1:12エフェソス 4:25

お世辞と「網を張る」という比喩(箴言 29:5)

箴言 29:5 は「隣人にお世辞を言う人は,隣人が通る所に網を張っている」と語ります。お世辞は単なる好意的な言葉ではなく、 相手を落とし入れるための罠になり得ます。狩人が獲物に網を張るように、へつらう人は相手の虚栄心をくすぐり、結果的に不利益や罪へと導く危険があります。

神に受け入れられる姿勢

一見ただの社交辞令に見えても、神の視点では偽りや虚飾に満ちた振る舞いとなり、信仰者にはふさわしくありません。

「うそをついてはならない」とお世辞(コロサイ 3:9)

コロサイ 3:9 は「互いにうそをついてはなりません。古い人格とそれに伴う習慣を脱ぎ捨て」と命じます。お世辞は表面的にはほめ言葉でも、内実は 偽りの言葉になり得ます。心にないことを言って相手を喜ばせたり操ったりするのは「うそ」の一種です。

「古い人格」とは自己中心的で利己的な生き方。へつらいはこの古い人格の習慣であり、相手を利用するための言葉――だからこそ、それを 脱ぎ捨てるよう勧められています。

「人を喜ばせる」の危うさ(ガラテア 1:10)

パウロは「人の好意か、神の好意か」を問いかけます。神の基準を犠牲にしてまで人に気に入られようとする姿勢は、へつらいへと傾きます。 お世辞はしばしば相手の虚栄心に迎合し、真実や正義をゆがめる危険があります。

結果として、人間の承認を優先し、神の承認を失うという逆転が起こり得ます。
誠実と真理を最優先にすることが、信仰の芯を守ります。